人間観、善の研究の解釈としての

わかる、というのは、分かると書くから、分ける、ことで、分からないのは、分けていない、ということだから、何かを知る方法はそうやって分けていくことなのかもしれない。

だとしたら、善の研究を読んで解釈したように、人間って、分ける存在なんだろうな。

私とあなた、とか、この国とあの国、とか。ビールとポテチとか、今の自分と理想の自分、とか、柿の種とバターピーナッツとか。

でもでも、じゃあ、人間は、分からない状態から、分かる状態、つまり主客が分かれた状態になって、

そこから、合致することで、分からない状態になって、その、分かれた後にくる、分かれていない状態が善だってことになるのかな。

そしてその、分からない状態から、再び分かる状態になって、再び分からない状態になって、って感じになるんだろうか。進む度に、分からない状態の、つまり、善の質が上がっていくみたいな。

おおすげえ、何か、哲学っぽいこと考えちゃった。やっぱり、何事も経験してみるもんだ。

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