素人が考えた、ドイツ観念論の凄いところ

決して詳しくは無いけども、歴史が好きで、哲学史なんかも調べたり読んだりする。

哲学の歴史の中には、ドイツ観念論という括りで説明される哲学者達がいる。

その主要人物の中に、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルという人達がいる。

因みに、ヘーゲルはビールが好きだったらしい。何か嬉しい。

そんな、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルって人達の思想の流れってのは、全然上手く言えないんだけど、

フィヒテにおいて、自己意識(自分自身?)は、自己自身を認識することで存在するというアイディアに至り、自己意識の存在が確立して、

シェリングにおいて、意識は、全て自己意識であるということにおいて、単一であるとされることで、1つの自己意識としての世界の存在が確立され(フィヒテが既に自己意識は存在することを確立してるから)、

ヘーゲルにおいて、シェリングの語る1つの意識としての世界とは、私と他人、あっちのグループとこっちのグループというような、多様性に満ち溢れつつも、1つに統一されているものであるとして、生成変化する、この、ありふれた日常としての世界を確立した感じだと思う。

この思想の流れは、

私はちゃんと生きてるし、私の目の前のテレビも実際にそこに存在するし、他人にもちゃんと心があるしっていう、

私達の日常の感覚、当たり前の感覚が、本当に本当に正しいんだよってことを根拠付けようとした流れなんだと思う。

つまり、ドイツ観念論の凄いところは、恐らく、私達が過ごしている日常に対して、

目の前に広がる世界は実在するのか?

とか、

目の前にいる他人には本当に自分と同じように心があるのか?

とか、

そもそも、私って本当に実在してるのか、実は誰かの夢だったりして?

という問いを投げ掛けて、ちゃんとそれらが、確かに実在していることを説明しようとして、ある程度納得のいく結論に至ったってところなんじゃないか。

そういう、日常を疑い、日常を基礎付けるということをやってのけたドイツ観念論は、哲学史の中でも、それまで無かったもので、画期的だと思う。

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